| 1. 今日のはじまり |
前回までで、オレ、次のようなことを伝えたかったみたい。
「今まで」の教育は、「あてはめる教育」だった。大人たちは、子どもを職業にあてはめるために、
学校という「しくみ」を世の中に作ってきた。自分が何らかの職業にうまくあてはめられた時、
アイデンティティを獲得した、というような表現も使われてきた。
だけど、これからは「あてはめる教育」じゃ、やっていけないんじゃないか。
なぜかって、世の中のありかたが「今まで」とずいぶん変わってきたし、これからもズンズン
変わっていくだろうから と、まァ、こんなことを感じながらオレは今日まで、実に長々しい
ロングホームルームをやってきているのでアリマス。
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| 2. ヤドギリからヤドカリへ |
「でも、ケッキョクなにかにあてはまっていかなきゃ働けないじゃんか」と、オレの
ロングホームルームは、だれかのたったひとことでほうむり去られる可能性がある(笑)。もちろん、
そのコメントは正解だよ、ただ、急ぎ加えて言っとくけど、「ヤドリギか、それとも、ヤドカリか」 。
「あてはめる教育」のイメージは、君たちがヤドリギになっているところをイメージするといいかも。
あのね、森の中にたくさん木がはえてるとするじゃんか。
バカでかい「木もあるし、枯れちゃないけどヒョロヒョロの木もあるとするよね。
いっぱいの種類の木の一本一本が、「ヤドリギ募集!」をしているとする。木が会社で、ヤドリギが人間だ。

会社は色々な条件をつけて、人間を選ぶ。学歴、資格、年齢制限、その他いろいろとね。
でもって、バカでかい木にくっつけられるヤドリギもいるし、ヒョロヒョロの木にくっつけられる
ヤドリギもいる。いずれにしても、木にヤドリギがくっつくわけだ。そして重要なことだけど、
ヤドリギって、そこでくっついた木でしか生きていけんのよね 。
もし、君たちが「あてはめる教育」にマインドコントロールされててさ、
「ホラホラ、おまえはヤドリギなのですヨ〜。バカでかい木にくっつきたきゃ
ハイパーメリトクラシーですヨ〜。大学院まで行って、大学院レベルの資格を取って、英語が
ペラペラしゃべれて北京語がペラぐらいにしゃべれて、説得力があって人間力があって
コミュニケーション力があって・・・・・・。
そうでなきゃ、ヒョロヒョロの木にしかくっつけなくなりますヨ〜、格差社会なんですヨ〜、
ビンボーな負け組みになるのですか〜」なんちゃってやられてるとして、
ええかの、それにダマされんのど(笑)。
たしかに、「あてはめる教育」によって、子どもたちをそれぞれのヤドリギに仕立てて、
それぞれの木々に根づかせることがベストの時代もあった。ただし、それぞれの木は、
それぞれのヤドリギの一生にきっちり責任も取っていた。終身雇用のことだ。
だって、ヤドリギって、くっついた木でしか生きていけんのんじゃもの。
ここらあたりのイメージが「寄らば大樹(就職するなら大企業)」という格言になっちょんじゃろうよ。
だけどさ、子どもをヤドリギに仕立てて、森の中の木々の枝に根づかせるってことは、
よっぽど森の中の木々が一本一本、しっかりしちょらんといけんのよ。
産業社会における企業の社会的責任ということだ。でも、いまどきの木って、勝手しちょらんか?
「今日から枝ぶりを変えることにしました。なので、この枝とこの枝を切って無くしま〜す」とか
しよるいね。そしたら、切って落とされる枝にくっついちょったヤドリギたち、どうなる?
会社のリストラとサラリーマンの自殺ってことだよ、これ。

終身雇用を大前提とした人材の社会階層移動装置である学校制度は、雇用形態が多様化している現代の
産業社会において、その機能の制度上の限界にあるのではないか、なんちゃってオレ、思うわけ。
みやすくいうと、ヤドリギの一生に責任は負いません、って木が言いよるのに、学校は、今までどおりの
ヤドリギとかスーパーヤドリギとかを作ろうとしよることが問題なんじゃないかってこと。
「だったらヤドカリじゃん!」とオレは言いたいんだけど、ヤドカリの話に行く前に、
ちょこっと寄り道させてクラハイ。
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| 3.なして今ごろ愛国心なんか |
アイデンティティじゃなくてチェンジビリティ、アホのスーパーメリトクラシー、ヤドリギから
ヤドカリへ こんなこと野村は言ってるけど、そんなの大ウソだ!
野村にダマされないようにしましょう!(笑)と、こう言ってくるオジサンやオバハンはきっといると思う。
なので、「オレの言いよることは、ワリとはずしちょらんのど」にふれちょくね。
いきなりだけど、テンポーの改革とかアンセーのタイゴクとか、中学校の歴史で習うたよね。
あれはなんだったかっていうと、ザクッと言えば、江戸幕府の悪あがき。
「江戸幕府のやりかたじゃ、もうやってけないゼ」と考える人たちがふえていたころ、
「ナニ言うんじゃい!江戸幕府は永遠に不滅なんじゃ!!」とやってのけたのが
テンポーの改革とかアンセーのタイゴクとかだよ。
「幕府のやりかたに文句でも言うてみてみィ、ひっつかまえちゃるど、ブチ殺しちゃるど!」
ってやるんだから、スゴイよね(笑)。
で、天保の改革をやった水野忠邦や安政の大獄をやった井伊直弼の脳ミソの中は
どうなってたかというと、「このままじゃいかん」と「どうにかするぞ」のふたつ。
「このままじゃいかん」とは、当時の時代認識と予見困難な未来に対する予期不安のこと。
問題意識といってもいい。少なくとも「このままじゃいかん」と考えたことは立派だよね、パチパチパチパチ。
ただ、天保の改革も安政の大獄も失敗した。「このままじゃいかん」、の、視点が平凡すぎた。
時代を超えた発想が取れちょらんじゃった。だから、当然のことだけど、「しかた」をミスったんよ。
天保の改革では株仲間を解散させた、つまり、流通経済をアタマから否定してかかった。
安政の大獄では幕府に異を唱えた者を処刑した。つまり、言論の大弾圧をおこなった。
なしてかって?ゴンゲン様の時代が理想だったからさ。
先祖がえりしちゃうんだろうね、先行き不透明な時代の平凡な人たちは。

解散させられた株仲間は、日本の資本主義のハシリ、処刑された吉田松陰は、
職業選択の自由と言論の自由とを同時にやってのけたフロントランナーだ。
封建社会の幕藩体制にドップリつかった平凡な人たちには、ゼンゼン理解できんかったんじゃろうね。
平凡な幕府の役人は、株仲間も吉田松陰もツブしにかかった。なしてかって?
とんでもなく不安じゃったんよ。これからどうなるのかまるでわからん時代に生きていると、
確かなものがいるんよ。未来に確かなものなんてなにもないんだから、不安にかられた平凡な人たちは
昔をふり返る。すると、歴史の中に輝いてる人物や時代が、確かにある。水野や井伊にとってはそれが
ゴンゲン様、徳川家康やったんじゃろうね。過去にモハンを求めて1ミリも動けない平凡な人たちに
してみれば、未来に向って走っている者はおそろしくジャマだし、了解不能なんよ。
このことからわかるのは、「どうにかするぞ」が「先祖がえり」と結びついてる時って、
不安な時代なんだってこと。未来が見通せんもんじゃからね。予期不安にかられる人間の心理は、
輝かしい歴史にお手本を見つけてくるんよ。安心できる確かさが、そこにはあるから。
で、ここ10年以上も前から、「ニッポンの教育、このままじゃいかん」と言われ続けている。
オレもそう思うちょったから、Nュー・Eデュケイション・Mードって名前をつけて、
そのカシラ文字を取ってネムを作ってきたんよ。ところがさ、「このままじゃいかん」って言ってる
多くの大人たちが、オールド・エデュケイション・モードに先祖がえりしよる(笑)。
その象徴が、愛国心だ。
言うちょくけど、オレ、すっごく愛国心に満ちちょるんど。
中学生の時に古事記を読みふけちょった変わり者で、今でも「アメツチハジメテヒラカレシトキ、
タカマノハラニナリマセルカミノミナハ・・・・・・」って、ソラで言えるんど、そこまでじゃけど(笑)。
だけどね、しかし、だ。日本人として日本の歴史に誇りと責任を感じ、天皇陛下を尊敬し国旗に敬意を
おぼえることと、教育改革の目玉に愛国心を持ってくることとは、ゼンゼン別の次元のテーマなんよ。
亡びていった江戸幕府じゃないけど、「このままじゃいけん」のあとに続く「どうにかするぞ」のなかみを
見れば、「このままじゃいけん」の意識のありかたが見えちゃうよね。
教育改革の目玉に愛国心を持って来ちょるオジサンやオバハンたちって、なんのことはない、
近代公教育制度が輝いていた時代(たぶん、明治から昭和の前半くらいまで)の精神に、
教育のありかたを先祖がえりさせたいんよ。不安なんだろうね。水野忠邦や井伊直弼を悩ませた
予期不安と同じものを抱えてんだろうね。
こういうオジサンやオバハンたちは、きっと「野村にダマされないようにしましょう!」って
言うと思うんよ。でも、そんなオジサンやオバハンがいてくれるからこそ、オレ的には
「ホラ、江戸幕府がおしまいになっちゃったように、今の時代も大きく変わるってことでしょ?
それを直感してるから、あなたたちは予期不安でいてもたってもいられないんでしょ?
変化に取り残される不安が先祖がえりさせてるんでしょ?

歴史の中で教育が輝いて見える時代の愛国心なんですよね?オールド・エデュケイション・モードを
持ってこなきゃ耐えられないくらいに、今の教育のありかたが
行きづまってしまっているってことですよね!」と主張できるんよ。
この議論、オレの勝ちじゃろ(笑)?
あのね、時代が大きく変わろうとする時には、必ず、大きく変わろうという流れと、
その反対に、大きく変わらないようにしようとする力の、両方がはたらくもんなんよ。
時代を変えないようにしようとする力が大きければ大きいほど、実は、その反対側にある変化への
うねりってやつが、とてつもなくデカいってことだ。
今どき、愛国心が大声でさけばれてるっていうことは、つまり、間違いなく、時代は大きく変わっていく。
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| 4.おまけ |
次回は「ヤドリギからヤドカリへ」の、ヤドカリについてお話をします。
必ずしますから、今日の最後は愛国心について、ひとつオマケさせて下さい。
オレ、愛国心なんかいらない、とは言うちょらんのど。
でも、最近、よく耳にする「愛国心」という言葉のイメージには、ヘンな感じがしちょる。あのね・・・。
父親を愛する。我が子を愛する。どちらも愛するで、愛の対象が異なっている。対象が異なるってことは、
愛しかたもおのずとちがってくる。一方は、自分を守り育ててくれた偉大な父親に対する高い尊敬と深い
感謝の念を「愛」と表現している。一方は、自分のすべてを注いで、なお注ぎ足らないほどに
大切な幼なき者に対する、汲めど尽きない情のほとばしりを「愛」と表現している。
オジサンやオバハンの主張しよる「愛国心」って、まるで「父親を愛せ!命令!!」とかに聞こえてこんか?
パターナリズム。国家とは一人一人の国民にとっては父親のような存在であり、時に厳しく時に温情的に
国民を支配するものである(父権主義)、なんちゃって言ってるような人たちが、
「お父さんに感謝しなさい!これは強制!!国を愛しなさい!ゼッタイ命令!!」とか、
言いよってんじゃないかいの。
オレ的な愛国心て、我が子をいつくしむ時の心情に重なっちょるんよね。
もちろん、オレは国家の親だ!なんてアホなこと言いよるんじゃない(笑)。
ただね、「ふたつしかって3つホメ、5つ教えて良き人にせよ」じゃないけど、国家は、永遠の
未青年みたいにオレ的にはイメージされててさ、国民ひとりひとりがまるで我が子を育てるみたいに、
わが国をはぐくいつくしみ、よりよいものとしていく、てなカンジなんよね。
「パターナリズムの愛国心」とはちがうけど、ニッポンのことを、過去も今も未来も大切に思う
気持ちとして、オレの中の愛国心にふれときました。ついでに言うちょくと、君たちこそが、
日本の未来なんど。ホンマど。
今日のオマケは以上です。では、次回もまたまたヨロシクつきあってクラハイませ。 |