6月号
1.
今日のはじめに
前回まで、家庭内暴力という重たいテーマにふれてきました。
それはひとまずそれで終わり、で、実は十日以上も前に、今日のとは
別の原稿で今月号がほぼ完成しちょったんよ。
ところがさ、秋葉原で起きたトンデモ事件が、私(=野村)に原稿の差し換えを求めてきた。
とにもかくにも君たちに伝えなきゃという思いで、今月号を書き直しました。
なので、今月号が届くのも少し遅れたわけです、そのことはゴメンナサイ。
2.
アキバ事件
秋葉原で起きた無差別殺人事件について、マスコミに出てる人たちがいろんなこと言っていた。
「家庭環境」とか「ネット社会」とか「派遣社員」とか「モラルハザード」とか、
そんな単語がキーワードになって、しかし、議論は拡散していたと思う。
テレビや新聞でイヤになるほどのコメントに接しながら、
「この人たちって若者と語りあったことないんじゃないか」と私(=野村)は感じていた。
観念肥大 大人がアタマの中でいろんなヘリクツを考えぬいて、それらしいコメントが
マスコミを通じてタレ流されていく。
ヘリクツもリクツだからリクツ的にはそれらしく聞こえてしまうけど、毎日君と出会い、
語り、君のことばかり考えている私(=野村)には、どのコメントもピンとはこなかった。
「彼は淋しかったのだ」などと言おうものなら、事件のあまりの重大性ゆえに、
世間から袋だたきにされるのだろう。
でもね、私(=野村)にはやはり「彼は淋しかったのだ」という印象しか成立していない。
3.
呼びかけられること
彼=殺人犯の肩を持って「彼は淋しかったのだ」と言ってるんじゃ、もちろんない。
彼のしでかしたことへの強烈な怒りや、残されてしまった方々へのどうしようもない情念や、
家族とか君たちとか自分が巻き込まれたらと思う不安は、人並みに私にウズ巻いている。
ただ、「なぜ彼はそうしたのか」を空想するにつけ、「呼びかけられる」ことのなくなった
人間の危機的な状況に、空想が広がった。
そして、「彼は淋しかったのだ」との印象が私(=野村)には残った。
人間は、「呼びかけられる」ことで、はじめて人間として生きていける、と、私(=野村)は思う。
だからこそ、私(=野村)は精一杯ガンバって「ネムという時間と空間」を世の中に創り出してきた。
「たゆたうような時間の中で、呼びかけられる場としてのネム」を、
私(=野村)は人生をかけて支えている、つもり。
ネムのかわい子たちさん、と、君はしばしば私(=野村)に「呼びかけられる」。
すると、君は、直接私(=野村)に語りかけてくれたり、消しゴムのカスを床に落とさず
ティッシュにくるんで捨ててくれたりする。言語メッセージであっても非言語メッセージであっても、
私(=野村)もまた「呼びかけられる」。なので私(=野村)は生きてられるし、
もっと頑張ろうって自分を勇気づけもする。
もし、こんなステキな関係が途絶したとすれば 私(=野村)が君たちからも、世の誰からも、
「呼びかけられる」ことなく日々を送らねばならないとすれば 。
あのね、日本の法律では「人を殺してはいけません」とは、書いてないんよ。
「人を殺したら死刑とかにするですよ」とは書いてあるけど、
「人を殺してはいけません」、とは書いてない。
なぜって、人間として、人間につながって暮らしていれば、わかりきったことだからだ。
アキバの殺人者だって、他者から「呼びかけられる」存在であったならば、
あんなことしなかったんじゃないか?自分は「呼びかけられる」存在ではない、と、
彼自身が自覚をした時、彼はふたつのことをした。ひとつは「やめろって呼びかけて!」と
言わんばかりにメール使って殺人予告しまくった。ひとつは、あんなことを、した。
誰からも「呼びかけられる」ことのない存在としての、彼 。
「彼は、淋しかったのだ」と私が印象した顛末は、以上のとおりです。
4.
つながっていること
淋しかったら人を殺してもよい、などと主張してるんじゃないヨ。
私(=野村)は、ただただ「じゃあ、どうすればよいのか」を考えている 。
あのね、君が産まれた時のことなんだけど。君のママは分べん台の上でヘトヘトになってたはずだよ。
で、産まれたての君を、助産師さんがママのおなかの上に乗っけたはずだ。
その時ママは、「ありがとう」とか「かわいい!」とか「ヨーコちゃんチュッチュッチュッ」とか、
君に呼びかけたはずだ。ヘトヘトなのに笑みを浮かべてね。
ついさっきまでママとヘソの緒でつながってた君は、生まれた瞬間から、呼びかけられることで、
ママとつながりなおす。立ち合いしてたらその時パパとも。
立ち合いじゃなければ、産湯を使ってきれいになった君に、パパが呼びかける。
いずれにしても、君は、呼びかけられることでパパともつながる、
つまり、この世とつながる、社会的存在となる。
つながってなきゃ、始まらんのよ。ナーンも知らんオッサンやオバハンが
「子どもを甘やかすな!道徳教育を強化しろ!」ってなこと言ってる。
おカミが個人の人生に口を出す世の中なんてロクなもんじゃないし、そもそも、
つながり感のない大人の言うことを、子たちが聴くわけないじゃんか。
アキバ事件にかくされた本質的なテーマは、つながり感の喪失だよ。
若者が「つながり拒否」してるんじゃないさ。つながりたくてつながりたくて、
ネットの樹海を彷徨してる。つながり感の喪失は、つまりは、つながる相手が身近な社会におらんからだよねぇ。
5.
中2階
なして、つながれないのか 。
去年、「アイデンティティじゃなくてチェンジビリティ」、「ヤドリギじゃなくてヤドカリ」と書いた
(ネムのHPのスクールブログの平成18年5月〜12月を見ると出てきます)。
私(=野村)がそこで言ってたことのひとつは
「人材養成システムの学校と、人材雇用システムの企業とが、連続しない時代になっている」という事実だ。
中間社会に位置づけられる学校と企業は、制度設計の段階では、確かに連続していた。
しかし、バブル崩壊後、およそここ20年間でその連続性が崩壊した、と私(=野村)は考える。
社会を4Fだてのビルにたとえると1Fは家庭(基礎社会)だ。
最上階の4Fにあたるのが国家。2Fと3Fは中間社会と呼ばれる。
2Fが学校で3Fが会社だとイメージするといい。家を出て2Fに上がって学校時代を過ごし、
2Fから3Fにつながる階段をひとつひとつ登っていくと、確実に3F、つまり、会社の入り口に立てていた。
ところがさ、その階段、メゲちょるんよ。メゲちょるせいで会社の入り口に立てなくなった若者が、
フリーターとかニートとか、負け組とか、ボロクソに言われよる。個人の問題じゃないって。
「人材養成システムと人材雇用システムの非連続性」と、今、私(=野村)が仮に呼ぶところの
テーマを解決しないと、アキバのことは、地名を変えて日本中いたるところで起きてくるど。
「美能交笑」のムキ出しの競争原理もつながり感の喪失も、社会システムのありかたに由来する、と、
私(=野村)は考える。
なので私(=野村)は、かなりマジのレベルで、中間社会を再構築することにチャレンジしようか、と
思いはじめている。2Fから3Fに上がる階段を作り直す、ついでに、中2階を作って
「教育と労働」のかけはしになるしくみになればいい、とか。
6.
今日のおわりに
中2階というかけはし、は、あまりに抽象的な言いかたなんで、次回に必ずやさしく解題します。
今日は、アキバに関してしか書けんかった。
それにしても、アキバの犯人はみごとなまでに「美能交笑」の規準でもって
最低の自己評価しちゃってるよね。ネムに相談に来ればよかったのにね 認知の変換ができた、カモ。
自己効力感を味わえた、カモ。カモにすぎないことだけど。
ネムのかわいい子たちさん。私(=野村)に「呼びかけられる」ことは、時には少しウザイかもしれん。
トーフづくりのにがりを読みたくない、ことがあるかもしれん。
私(=野村)に語りかけられることよりも、チャットで知らない人たちと話してた方が、楽かもしれん。
呼びかけられてつながる相手は、私(=野村)でなくてもぜんぜんOKだ。
ただね、「呼びかけられてつながっている」中の一人は、これはぜったいのことだけど、
「善意のナマミの大人」をキープしとけよ。ホンマど。
今日はここまで、あ、言い忘れたけど、やっぱし君のことばかり、考えてます、これもホンマなんど。
で、今日はおしまい。
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