2006年/12月号
1. 今日のはじめに
 オレ、脳ミソの中はまだ10月みたいなんだけど、現実のカレンダーは、12月!
早すぎる!なんか、アッという間に1年が過ぎちゃった。
 5月から始めた文章ロングホームルームも、そろそろ終わらんといけん。なので、

今日はどうしたってこのシリーズをしめくくるど。オレ、がんばってみるから、
どうか君たちもしっかりと読み込んでくらはい。
2. おさらい
 はじめのころ、オレ、「アイデンティティじゃなくてチェンジビリティだ」って言った。
「勉強せーよ」って呼びかけた。勉強するってことを君たちに納得してもらうために
「モノとコトを分けてみる」と説明した。「ヤドリギじゃなくてヤドカリ」という表現を使って
「自由な時代の不自由」に対応する意識づけをこころみた。
「強い者が生き残るとは限らない。頭のいい者が勝ち残ったわけではない。変化した者が生き残ったのだ」
というダーウィンの言葉を引用して、チェンジビリティの考え方を補強した。
それから話がブッ飛んで、「立ち位置」の話が始まった。
「グローバルでハイテク。グローバルでローテク。」
「ローカルでハイテク。ローカルでローテク。」そして
「モノづくりとコトづくり」とか。
 5月から長々しく書いてきたことだからもう忘れたかもしれんけど、
だいたいこんなとこがおさらいの内容だ。
3. 教育という4K
 この文章ロングホームルームが終わった時、
君たちの中に「ふ〜ん、そ〜なんか〜、ホナ、勉強しよーかー」という
気持ちが生まれていたら、大成功。オレ的には君たちの中に少しでも意欲が高まってほしいけぇ、
いきなりだけど、教育の4Kにふれちょかして。
 キツイ・キタナイ・キケン。
一般的に仕事の3Kと言われている。
その言いかたをパクッて教育について表現すれば、キツイ・キビシイ・ケダカイ・ケンキョ。4Kだ。
もちろんそれってオレが勝手に言ってるだけのことだけど(笑)。
 教育という仕事って、体も気持ちも、ぶちキツイ。ホンマど。オレ、君たちと一緒にいる時はアホな
中年オヤジやってるけど、気持ち的にはいつも張りつめとる。なので、夕方にはかなりグッタリしちょる。
いつもニコニコしてるネムのスタッフに共通したことだ。
ただあれど、「キツイからイヤだ」とは言うちょらんのど。誤解はナシということで。
 次は、キビシイ。「教育だから生徒にキビシイ」という意味じゃない。キビシイのは、教育してる人が
その人自身に、という意味だ。
こないだの文化祭の時、準備と進行でハリハリになってたネムのスタッフが、怒鳴ってたじゃんか。
そのことはオレ、あやまる。ゴメンナサイ。ただ、怒鳴ってたスタッフのその夜の落ち込みかたも、
フツーじゃなかったんよ。「なしてあんなに生徒を怒鳴ってしまったのか」って、ひどいヘコミかただった。
オレ、「ハリハリだったんだからしかたないさ」ってスタッフに言いながら、
心の片すみで「コイツら、いいスタッフだよ、こんなに自分にキビシイやつ、そこらにはいないゼ」って、
少し自慢だった。
 教育といういとなみにかかわっているスタッフの落ち込んだ姿は、そのまま教育といういとなみにかかわる
キビシさを物語ってるんだと、オレ、思う。未熟だけど、キビシさを知っているという一点で、
オレはネムのスタッフをほこりに感じます。ゴメンだったね、そして、わかってやって。
 で、3つめ、ケダカイ。そりゃそうだと思うよ、教育って。説明、いるか?崇高ないとなみなんよ、教育って。
 4Kの4つめいくね。教育は、ケンキョなもののはずだ。限定的と言ってもいいかも。
こう言うとね、オレ、ふくろだたきされるかもしれんのんよ(笑)。
「ナニ言いよんじゃい!教育は圧倒的なもんなんじゃ!ヒトは教育によってのみ人間になれるんじゃ!
ケンキョとはケシカラン!教育こそが生徒を染め上げる力を持っとんのじゃ!!!!」と、まァ、こんなふうに
ブチ切れるオジサンとかオバハンとかが、多数派なんじゃと思う。
 多数派になるには多数派になる理由がたしかにあるんであって、たぶん多くのオジサンとかオバハンが
イメージしちょる教育は、「白紙」だ。タブララサ(ラテン語なんと)、つまり、なんにも
書き込まれていない白紙を子どもに見たてて、そのタブララサ(白紙)に色々な書き込みをする、
あるいは染めつけをするってイメージなんだろうね。
だから世の中のオジサンとかオバハンが言いよってじゃんか。
「今までは生徒の心が自己チューで染めつけられちょった!自己チュー、ハンタ〜イ。
これからは心を愛国心で染めつけるど。愛国心、バンザ〜イ、自己チュー、ハンタ〜イ」って。
 いつか話したけど、祖国をかけがえのないものと感じるってあたりまえのこと、公共公益が私情に
優先されることも当然なんだ。それはそうなんだけど、じゃぁ、それって圧倒的な強制力でもって子たちに
命令することか?あるいは強制とか命令とかいう方法で子たちに伝わるんか?
 それが可能だと考えるオジサンやオバハンたちは、「教育ってケンキョなんよ」てなこと言ってる
オレを袋ダタキにするだろう(笑)。でもさ、ね、強制とか命令とかで君たちに何かが伝わるんだったら、
オレ、5月からこんなにも長々しい文章ロングホームルームなんかせんて。君たちに限らず、
人間の心に言葉を、つまり意味とか概念とかを伝えるって、どれだけ苦労するかっちゅーの。
 オレ的には、教育はキツくて、キビシくて、ケダカくて、ケンキョなんよ。ケンキョ。
だからねばり強くべらぼうな時間をかけて、語りかけていかんといけんのんよ。
「強制命令一発OK!」とはいかんもんじゃと思う。
4. おとなになっていく
 「強制命令一発OK!」的に教育を考えるオジサンやオバハンは、これもいつかふれちょいたけど、
不安なんよ。「礼儀作法もロクに知らず、働きもしないニートやフリーターなんてワケワカラン!」
のじゃと。だから、ビシッとキチッとガチッとした人間を育てたいんじゃろうね。
なしてビシッとキチッとガチッとした人間が育っちょらんかを考えたオジサンやオバハンたちは、
教育基本法という法律に原因を見つけたんと。じゃから法律を書き替えたら日本中がビシッとキチッと
ガチッとしてくるんと。何かせんと不安でたまらんのじゃろうね。
 ビシッとキチッとガチッとは別として、君たちをおとなに育てていく責任はオレにある。
 そのオレが「おとなになる」ということをどう考えちょるかというと、4つだ。
「時間的展望」と「欲求不満耐性」と「合理的判断」と「現実妥協力」の4つ(ことばの説明は下の板書で)。
 この4つがおとなになっていく条件なんだろうけど、今の時代、それが君たちの中に
育ちにくいんだと思う。なしてか?キーワードは「快・不快」。
 たとえ話だけど、赤ちゃんがギャーギャー泣きよるとする。
赤ちゃんは「おなかすいたよ〜」と表現しよるわけよ。欲求不満の状態を「不快」という。
この場合は、空腹。赤ちゃんが泣きよるけぇ、ママがオッパイをあげるよね。すると赤ちゃんは
オッパイをゴクゴク飲んで、ニコニコしてから寝る。欲求が充足されて満足した状態が「快」だ。
 赤ちゃんの時代、人間はだれでも「快・不快」だけの世界で生きている。
そして欲求不満は、すぐに解消されて欲求充足の状態となるように生きている。
ギャーンと泣く、オッパイがくる。ヒャーンと泣く、おむつが替わる。
不快は快に「すぐさま変化」するのが赤ちゃんの時代なんよ。
 オレのいうおとなとは、欲求不満状態(不快)が解消されて、欲求充足(快)の状態になるまで、
少くとも「年単位」をかけるひとのこと。本当のおとなとは、赤ちゃんのように「すぐさま変化」しない
ことがらについて、少くとも「年単位」、場合によっては「一生かけて」取り組むひとのこと。
長いスパンでもって計画を立てて実行する能力が「時間的展望」だ。
 この時間的展望は、「欲求不満耐性」と言い替えてもよい。
時間的展望にもとづいて計画し実行するということは、少くとも「年単位」で欲求不満状態(不快)にさらされる。
場合によっては、一生涯において。時間的展望に立つということは耐性が必要なんだ。
この耐性は「合理的判断」に由来する。「理想はAだ、そして現状はBだ、ゆえに、次にはCに取り組む」という
判断を重ねながら、欲求不満状態(不快)の解消に向けて頑張っていくの。
だから、この合理的判断は「現実妥協力」と言い替えてもいい。
 時間的展望、欲求不満耐性、合理的判断、現実妥協能力というのは、植物にたとえると
「根っこ」と「くき」と「葉っぱ」と「花」みたいなもんで、全体として「これ」なんだけど、
わかりやすいかと思うので、部分部分で説明しときました。
 オレのいうところのおとなが育ちにくいっツーのは、今の時代、満たされやすいけぇじゃ。
暑い・寒いは空調で。空腹はコンビニで。あるいは見たい時に見れて話したい時に話す ケータイも
CDもネットも、そんなニーズをすぐさま満たす。買い物してカラオケ行ってタクシーで帰ってメールして
真夜中にシャワーあびて録画しといたドラマ見ながらコンビニ弁当を食べてたり。
今の時代って満たされやすいよね。君たちが欲するくらいのことは、すぐさま満たされる。
モノにおいてコトにおいて、およそマネーに置きかえられるものごとは、君たちの不快をすぐさま快に
変化させていく。
 すぐさま快に変化しない状況に直面すると、だから、オジサンでもオバハンでも逆ギレして
しまうじゃんか。オジサンやオバハンだからこどもじゃないさ。だけど逆ギレしてる姿は、
少くともオレのいうおとなでもない。おとなになりきれなかったオジサンやオバハンが
大量出現してるくらいだから、君たちが「おとなになること」って、やっぱ、そーとーたいへんなんだぜ。
 でもね、それって個人主義が原因じゃない。消費社会そのものだよ、原因は。豊かさと言い替えてもいい。
豊かさを無自覚で受け取りながら、無防備で消費社会に住み続けると、君たちはおとなになりそこねる
かもしれんのよ。消費という規準でしか人生を考えちょらんオジサンやオバハン、ゾロゾロおるじゃんか。
マネーが目的となっているメッセージってゴロゴロしちょるじゃんか。
「超」消費社会の中に生まれ育つということは、それだけでタイヘンなテーマなんだと思う。
おとなになるためには、しっかりとしたくふうがいるんだよね、きっと。
5. おとなへのくふう
 教育が江戸時代の身分社会をブッこわして社会階層を移動させたり、工業社会を支える人材を
養成してきちんと世の中に人間をあてはめていくことに貢献したのは、事実だ。その時の教育って、
「モノづくりができる人になる」とか「サービスを提供できる人になる」とか、つまり、若者が
技術や知識を獲得することで十分じゃったんと思う。
世の中の「ものごと」は、モノとコトに分けるって説明したじゃんか。コトはサービスと精神世界とに
さらに分けるとその時に言ったよね。「モノづくりができる人になる」とか
「サービスを提供できる人になる」って、実は教育ではなく訓練と言うべきだ。
技能訓練とか知識獲得トレーニングとか。とにかく「マネーに置きかえられるモノとコト」に関する
いとなみは、オレ的には教育じゃなくなくて訓練なんよ。いつだったか、オレ、ハイパーメリトクラシーを
からかったけど、教育の話をスッ飛ばして訓練の議論したって始まらんじゃんか。
 教育とは、本質的には「マネーに置きかえられないコト」、すなわち精神世界にかかわるいとなみのことだ
 世の中のエライひとたちもそんなことはとっくに知っちょるんで、だから子どもの精神世界を
愛国心と公共心で染め上げようとしよる。
 君たちの精神世界にかかわることなので、それって一見、教育のように思えるかもしれん。
でもね、人間の精神世界のありようを強制とか命令で染め上げるって、洗脳ちゅーんよ。
昔、オウム真理教の事件があったじゃんか。信者の人を強制命令でコントロールされるように「洗脳」した。
洗脳された信者はとんでもない指示をカンタンに実行した。
人間の精神世界にかかわるって、ホンマにコワイことだ。
 教育は、洗脳と紙ヒトエなんかもしれん。いずれにしても人間の精神世界にかかわるからだ。
だからこそ、教育はケンキョであるべきなんよ。だからキツくてキビシいんよ。だからケダカイんよ。
教育が4Kだっちゅーオレの議論、オレ的には真理じゃと思うんよね 。
 で、思い出してーや。「今が江戸時代なら、君たちは士農工商いずれかの身分にハメられているのだから、
『自分はこうなる』の『こう』は100%確定している」と、このシリーズの一番はじめに書いた。
続けてオレは次のように書いた。
「そのシバリは実に不自由なもんだ。だから私たちは自由であることを願い、現在、自由を確実に手にしている。
が、この自由ってやつが実はなかなか不自由で、『自分はこうなる』の『こう』が
100%不確実性をともなってしまう」と。
 たぶん、世の中の大多数のオジサンやオバハンは「だからこそ教育の力で有利な職業に就くしかないんじゃ〜!!」と思い込んじょる。
けど、それって「工業社会におけるあてはめの教育」の発想なんよね。
江戸時代的な身分社会とか工業社会における経済的地位(社会階層)から脱出する手段としての教育は、
20世紀の遺物だ。就職することを目的とした訓練を教育と呼んでいた時代は、過去として現在と区切られる。
人間をヤドリギとする教育は、根本的にはまずしさを克服していく時代に役立ったものにすぎない。
おとなになっていくためのくふうは、訓練に柔順であることではなく、君たちの精神世界という領域で
おこなわれるべきだってことをわかってほしい。
6. 勉強せーよ
全体のおわりに、「と啄」を始めないか
 5月に「ふ〜ん、アイデンティティじゃなくて、チェンジビリティなんか〜。そうなんか〜。で、
勉強せェ〜ツ〜んか。『勉強』のなかみを、モノとコトに分けてこれから説明するっちゅーんか〜。
はよ、答え言うて〜や〜」と、オレ、書いた。それから延々と今日まで、実に長々しくいろんなことに
ふれてきた。つきあってくれてありがとう、ここで終わりになりますんで、ついでに最後まで読み込んでね。
 教育といういとなみは、ケンキョに君たちの精神世界にかかわるものだというオレの考えが十分に
君たちに届いたろうか?こども時代から思春期までは確実に育っている君たちが、
さらに「おとな」にまで成長してほしいとのオレの思いは、伝わったろうか?おとなになるってことは、
君たちの精神世界の中に、時間的展望と欲求不満耐性と合理的判断力と現実妥協力を
(育ちにくい今の時代だけど)育てることが必要だというオレの考えはどうだろうか?
よっつの力が君たちの精神世界に育つくふうは、実は、オレと君たちの共同作業としておこなわれる。
はじめに君たちに起こることは、だ。「そつ」と読むんと。意味は、鳥が卵の中で

「そろそろカラをやぶって出て行くヨ」って時に、卵の中からピヨピヨって鳴くことなんと。
 君たちが卵の中にいてピヨピヨ鳴いてくれたら、つぎにオレのすることは「啄」だ。
「たく」って読むんと。意味は卵の中でピヨピヨ鳴いた声を聞いた親鳥が、
卵のカラを外側からコツコツたたくことなんと。「産まれるヨ、ピヨピヨ」で「そつ」。
「ここから出といで、コツコツ」で「啄 たく 」。ふたつ合わせて「
啄 そったく 」。
 オレの言う訓練でなく洗脳でなく「教育」って、君たちの方からピヨピヨ鳴いてくれんと始まらんの。
「そつ」してくれたら「たく」するけ〜。ピヨピヨしたらコツコツするで〜。
これって共同作業だよね。ケンキョなはずだよ、オレ的教育って。なにより、君たちがおってくれんと
はじまらん、あたりまえのことじゃけど(笑)。
 オレの精神世界の中に、「たいせつ」がある。君たちだ。たいせつな君たちの持ちつつ、
完成には至っていないネムハイスクールの現状に欲求不満耐性でもって忍耐し、今から何を
すべきかについて合理的判断力を働かせながら、今できることに専念するために現実妥協力を高めよる。
おとなであることに必要なよっつの力が機能するのは、
自分の精神世界の中心に「たいせつ」があるからにほかならない。
 君たちは、君たちの精神世界の中心に、どんな「たいせつ」を置くんだろうか。
「これかな?ピヨピヨ」「それなら、コツコツ」。オレでよければ、君たちの
そつ 」に「啄 たく 」させてくれたまえよ。
 精神世界の中心に「たいせつ」をすえて、よっつの力を発揮する。
このことは、パソコンにたとえると、中央演算装置つまり、ソフトが完成していることと同じだ。
自動車にたとえると、いつでもスタートできる新車が目の前にあることと同じだ。
ただね、パソコンにたとえると、ディスクトップに多くの情報が入ってないと、演算のしようがない。
自動車にたとえると、ガソリン入れなきゃ走らない。だからこそ、「勉強せーよ」。
 自由な時代を生きる君たちのやっかいさは、一方で自分の精神世界の中心に自分の力で価値を
すえつけながら、同時に一方で、現実にその価値を実現するための訓練に参加もしていくという点にある。
 江戸時代のような身分社会ならば「オマエは百姓なんだから、米を育てりゃそれでいい」と決定されている。
工業社会は「いい大学に入学さえすれば一生が保証される」という時代だった
 でも、超消費社会に生まれ育つ君たちは、「モノやサービスを自分で選び、決める」という行動を
通じて、自由な選択と自己決定を十分に学習している、あるいは、してしまっている。
それに加えて超消費社会は君たちを「赤ちゃん」、つまり「快・不快」だけの世界に押し止めつつ、
快的な消費で君たちを誘惑し続ける。それに加えて多くのオジサンやオバハンたちがスキあらば
君たちに「たいせつ」なことがら、つまり価値を一方的に置しつけてくる、強制する。
 こんなふうな時代だから、「勉強せ〜よ」。オレが言い続けてきた「勉強」は、君たちの中に
君たちだけの価値をすえつける作業と、自分の価値を実現する自主的トレーニング(訓練)の
同時進行を求めているってことだ。ちょっとやそっとでできることじゃないことは、オレも十分に知っている。
なので、「高校を卒業するまでにはカンペキに」なんて思っち思っちゃいない。
20歳まででもムリだと思う。いつまでに完成するってもんじゃなくて、
それこそチェンジビリティ、一生をかけて続けていくもんなんよ。
 価値にかかわる自己教育とその価値を実現するための自己訓練は、おそらく君たちの生涯にわたって
続けられるべきことがらだ。とりあえず、人生ではじめての「
そつ と啄 たく 」はオレでよければオレでやって。
 君たちは、それからも幾度も
啄を経験することだろう。その時必要な自己訓練は、
その
啄の中ですえつけられた君たちの価値が君たちに要求をしてくるはずだ。
その時々に、やってくといい。そしてその時、思い出してみるといい。
「強い者が生き残るとは限らない。頭のいい者が勝ち残ったわけではない。変化した者が生き残ったのだ」
 この授業、以上です。


最後までつきあってくれて
ありがと〜!!
よいお年を

Copy lights NEM HIGH SCHOOL